AKANET2号
外中央線も第二のシルクロードだった −「新宿」から「八王子」までの誕生 前回は、山手線の前身「日本鉄道品川線」でしたが、今回は 中央線の誕生をめぐって2回に分けてお話いたします。 現在「東京」から「高尾」までが中央線で、それ以遠「松本 」までが中央本線と呼ばれていますが、創業時の中央線は「新 宿」から「八王子」まででした。1889年(明治22)民営 の「甲武鉄道」として、「日本鉄道品川線」より4年遅れて開 業しました。開業当時の駅は、新宿−中野−(武蔵)境−国分 寺−立川−八王子の僅か6駅でした。 |
鉄道が開設されるまで、大量輸送手段は水運でしたが、残念 なことに多摩地帯は、利根川・荒川水系と相模川水系の間に挟 まれた陸の孤島で、甲州街道と青梅街道が主要交通路として重 要な役割を担っておりました。 しかし当時の土木技術では、河川を横断する橋が不完全だっ たことと、馬蹄をする技術がなかったので、馬車輸送はヨーロ ッパ諸国のようには発展しませんでした。従って河川のないこ とが多摩の地域経済にとって深刻な問題でした「多摩に船運を 」という願望は遠く江戸時代からのもので、江戸の飲料水とし て導かれた玉川上水を船運に利用する計画は、しばしば試みら れていましたが、何れも実現しませんでした。 やっと1870年(明治3)になって実現したものの、僅か 2年で中止されてしまいました。ここで急浮上したのが、玉川 上水の土手沿いに馬車鉄道を走らせようという計画で、このア イデアが後の「甲武鉄道」の計画へと発展することとなったの です。 |
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明治初期の鉄道は、1872年開業の東京−横浜、1874 年の神戸−大阪、1877年の大阪−京都のいずれも官設官営 つまり国営鉄道として建設されてきました。しかし1877年 の西南戦争の膨大な戦費は、もともと懐不如意だった明治政府 の財政を更に著しく圧迫する事となり、官設官営を維持するこ とが出来なくなりました。 山手線の前身「日本鉄道」が民営鉄道の先鞭をきることとな ったのには、このような明治政府の裏事情があったからなので す。 それからもう一つ、この時期の出来事で意外な事があります 多摩は明治維新後しばらくの間、神奈川県だったということで す。1878年に至り、東、西、南、北の4多摩に分割され、 東多摩は分割と同時に東京府に移管され、更にいくつかの変化 を経て現在の中野区と杉並区になりました。残った3多摩はそ の後も引き続き神奈川県下におかれ、1894年に至って東京 府に移管され現在に至ったのです。 八王子は当時既に、武州、相州、甲州、信州の養蚕・製糸・ 織物の商品生産と陸路における流通の一大結節点の地位を得て おりました。ちなみに甲武鉄道が出願された頃の多摩地方の商 品流通状況は、甲州街道と青梅街道を経由して東京へのルート と、八王子街道を経由して横浜へのルートが確立されていまし |
た。そして驚く事に、出荷量の約7割が八王子街道ルートで、 残り3割が甲州街道・青梅街道ルートでした。 このような背景があったため、八王子の織物財閥と横浜のシ ルク財閥が二手に分かれ、八王子を東京へ結ぶ甲武鉄道と、八 王子を横浜と結ぶ武蔵鉄道の2線が同時に出願され、激しく八 王子を奪い合う認可合戦を繰り広げました。最後は政治決着と なり、武蔵鉄道は却下される事となりました。この時内務卿山 県有朋の出した結論は「各地に関係を有する鉄道を布設する場 合は、必ず首府を基点とする事を原則とする」というもので、 東京の歴史にとって極めて重要なものとなりました。 歴史にifは禁物と言われますが、もしこの時の結果が逆で あったなら、東京の都市構造は今とはまったく異なったものと なっていた筈です。事実我国の産業革命期といわれる1880 年代後半から1910年頃にかけて日本の地域構造は、各地で の鉄道ブームによって一段と拍車がかかり大きく再編されまし た。ことに京浜、中京、京阪神、北九州の太平洋沿岸地域の経 済的地位が向上し、反面奥州、北陸、山陰地方の経済的地盤沈 下は著しく、「裏日本」という差別呼称が出来たのもこの時期 で、鉄道の敷設が巻き起こした経済的浮沈は、計り知れないも のがあったのです。 宇田川 達生 |
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