AKANET4号

シリーズ

その4

 

東京駅誕生のいきさつ

東京都市計画の本格議論の中心的テーマ

 

 明治前期における東京のターミナル駅として、東海道本線

の前身である新橋−横浜間と、東北本線の前身である上野−

高崎間がすでに開通していたものの、新橋−上野間は途切れ

た状態でした。

 新橋−横浜間の鉄道開通式の半年前、大火によって銀座・

京橋・築地一帯の5千戸が焼失しました。明治政府は、この

大火を首都東京の顔を創る千載一遇のチャンスと捉え、即断

即決のテンポで事業を推進し、およそ1年半後には銀座は煉

瓦街として生まれ変わりました。歩道と車道が分離され街路

樹(この時は柳ではなかった)が植えられ、ガス灯が点る銀

座煉瓦街は、今日の目から見れば日本と西洋が怪しく混じり

合った摩訶不思議な光景ですが、当時の一般庶民にとっては

文明開化のショーウィンドウとして映ったことでしょう。

 新橋停車場と都心を結ぶ交通機関として、明治15年(1

882)に東京馬車鉄道が新橋−銀座−日本橋間に開業し、

やや遅れて上野−浅草まで延伸されました。この路線が後の

地下鉄銀座線となるのですが、この話は別の機会に致します

このような状況で鉄道馬車が、市街地の路面を歩行者・人力

車・馬車などと共用するのでは、速度・輸送力のいずれの面

からも問題がありました。思い切って新橋−上野間を接続し

大量高速輸送を目的とした専用の軌道敷をもつ蒸気鉄道を走

らせよう、という計画が内務省主導で急浮上しました。

 明治17年(1884)東京府知事・芳川顕正は「市区改

正意見書」を提出しました。その内容は市域の設定・用途地

域性の導入から始まり、道路・鉄道・運河・橋梁など交通計

画を始め、上下水道・公園・市場・劇場等々都市の基幹問題

をすべて視野に含めた画期的な東京改造計画で、日本におけ

る本格的な都市計画の嚆矢として大変貴重なものです。この

案によって、初めて新橋−上野間の市内貫通鉄道の建築と中

央停車場(東京駅)の設置が具体化されたのです。

 「鉄道は新橋上野両停車場の線路を接続せしめ、鍛冶橋内

及び萬世橋の北に停車場を設置すべきものとす。…前記両停

車場を図面のごとく接続せしめ、鍛冶橋内に中央の停車場を

設け、又神田川の北にひとつの停車場を設置し、彼比の交通

及び貨物運転の便利を増進せんと欲するなり…」

 この計画で示された路線も中央停車場の位置も、現在の東

京駅とほとんど一致します。しかし、この中央停車場の計画

について、当然反対論もでました。原案作成担当者の原口要

東京府技師は、海外で得た鉄道の専門知識をもとに「近来は

都府の中央を鉄道の通過すること一般となり、英の如きは年

々に増殖せり…。一体新橋なり上野なり共に片寄り居るによ

り中央に停車場設けたき考えなり」「亜米利加の鉄道皆中央

ステイションより分かるることとなりて居れり。蓋し欧羅巴

にても都府の市街を新たに建るなれば左様にせしことならん

」と反論し、明治18年貫通路線計画については原案通り認

められました。

 この議論の中で民間人代表として審議会に参加した渋沢栄

一東京商工会会頭は、都市をつくる側からの論理でなく、使

う側からの論理で数々の注文を付けていたことが記録されて

います。たとえば政府側委員は、散在する諸官庁を皇居前に

集中させ、パリの街のように景観上優れた官庁街をつくるこ

とを提案しましたが、渋沢会頭は「丸の内は、諸官庁及び公

園に必要な敷地以外は商業地にする」ことを強く主張しまし

た。この結果政府原案は一部修正され、現在の霞ヶ関・日比

谷・皇居前広場・北の丸公園一帯は官省地に、そして丸の内

・大手町は商業地に用途分けされることとなりました。

 以後この市区改正計画は、何度も何度も審議され数々の変

更を重ねますが、この貫通路線と中央停車場の位置について

は、その後の東京改造計画の中で唯一不動の地位を占め、変

更されることはありませんでした。ただ一度だけ、どんでも

ない横槍が入ったことがありますが、それは次回お話しまし

ょう。

宇田川 達生

市区改正計画における皇居周辺の用途変遷

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